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映画「沈黙 サイレンス」を観てきた感想と感じた世の中の不条理

2月3日(金)に映画「沈黙 サイレンス」を観て来たので感想をまとめておきます。

原作は遠藤周作さんの沈黙ですね。世界20ヶ国で翻訳され、出版されている名著ですね!それを巨匠マーティンスコセッシ監督が映画化して完成したのが今回の「沈黙 サイレンス」です。

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僕個人としてはマーティンスコセッシ監督が映画化してくれたのがすごく嬉しかったですね。なにせアメリカの名監督ですし、代表作にも名作がズラリと並んでいるような方ですからね。そして何より日本好きというところもいいです。

そしてすごく個人的ではあるんですが、僕はマーティンスコセッシ監督の作品が大好き!ウルフオブウォールストリートやグッドフェローズ、カジノといった作品は何回も観てきましたからね。それらの作品を手掛けてきたマーティンスコセッシ監督が日本の作品を取り上げてくれたのは僕としてはすごく嬉しかったです。

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あらすじ

映画 KADOKAWAYoutube公式チャンネルより

 

物語の舞台は江戸時代キリシタン弾圧下の長崎です。そこで宣教活動をしていたフェレイラ神父が穴吊りの拷問についに屈して棄教してしまいます。それがポルトガルのロドリゴ神父とガルペ神父の元に知らせが届き、日本に真相を確かめるためやってきます。

途中経由地であるマカオで漁船で漂流して助けられていたキリシタンの日本人、キチジローと出会う。日本に帰りたがっていたキチジローを案内役としてガルペ、ロドリゴを含む3人で日本へ密入国することに。密入国した日本の長崎ではキリシタン弾圧のもとで信仰を捨てず祈り続ける日本人の姿があった。

その姿に感銘を受けたロドリゴとガルペは布教活動を行う。それと同時にフェレイラ神父の情報も捜索することに。

しかし程なくして長崎奉行にガルペとロドリゴが密入国して宣教活動を行っていることがバレてしまう。そして長崎奉行に追われる身となる。

ガルペとロドリゴは別々に逃走を試みるもキチジローに裏切られ密告されてしまい、ついには身柄を囚われてしまう。囚われの身となったロドリゴは長崎奉行を始め、井上筑後守から棄教を迫られることに。

 

この作品は死んだとしても自分の信念を貫き通すのか、生きるために信念を曲げるのかという選択を通して、

人はどうあるべきか?

人はどう生きるべきか?

を問う作品となっています。

 

セバスチャンロドリゴ神父の信念を貫く姿

作中ではアンドリューガーフィールド演じるロドリゴ神父が弾圧に屈せず自分の信念を貫き通す姿が描かれていました。

僕は彼の苦しくても自分の信じた道を貫き通す姿に感動してしまいました。眼前で行われる日本人キリシタンへの弾圧が行われるシーンではどれだけ心が痛かったことか。自分が弾圧に屈して棄教を認めれば彼らは助かる。けどそれは自分の信念を捨てることになると同時に日本人キリシタンを裏切る行為となるため、そう簡単に決断できるものではありません。その中でロドリゴの眼前で犠牲者を出したりしながらさらに苦しい状況に陥れ棄教を迫ってくる長崎奉行。この究極の環境下で自分に置き換えて考えてみるとすごく心が辛かった。同じ信念を持っている人のためには棄教してはならない。けどキリシタンの命を守るためには自分が棄教しなければいけない。

僕がロドリゴの立場だったらどうしているだろうか?うーん、自分が棄教してキリシタンの命を守る選択をするかな?けどそれはもうキリシタンの日本人がもうキリシタンとしては生きていけないということを意味する。それは人によっては死よりも大きな苦しみなのかもしれない。

 

一番印象に残ったキチジロー

窪塚洋介さん演じるキチジローという人物が一番印象に残った。作中では弱くズル賢い人間として描かれているが最も人間らしいのではないか?と思ってしまった。

踏み絵を迫られたときも生きるために絵を踏むのだが、この行為は普通なんじゃないか?と思った。だって生きるためには踏まなきゃいけないわけだから。窪塚洋介さんもおっしゃっていたんだけど、踏まない強さと逆に踏める強さがあるんじゃないか?と。みんな信念を守るために踏まない。そんな中で絵を踏むことは逆に強いのではないか?ということだ。

死を恐れ、生きるためにズル賢い選択をするキチジローだけどそれは弱さではなく、生きていくための強い選択なのではないかと思う。それにキリシタン全員が生きるよりも信念を貫き通す選択をする中で1人生きる選択をするのも非常に勇気が必要で難しいことだ。

とはいえここまで来ると本当にキリシタンなのか?と思ってしまったが、最初から最後までキリシタンとしての姿が描かれているのでキリシタンなんでしょう。

 

演技力が爆発!イッセー尾形さん

イッセー尾形さん演じる長崎奉行井上筑後守の演技力が圧巻だった。知識を持ち権力を握っている名家のじい様といった雰囲気が説明が無くとも伝わってきた。当時の権力者はこんな感じだったんだろうなと思ってしまった。

なんかもうイッセー尾形さんが井上筑後守そのものになっていたような気がするし、立ち振る舞いから何まで当時の権力者を表現していた。

当時の人そのものなんじゃないかというくらい井上筑後守という人物は際立って見えました。

 

長崎奉行のお役人たち

僕が作品を通して感じたことは長崎奉行のお役人たちの振る舞い方や態度だ。隠れキリシタンや宣教師たちにまるで他人事のように残酷なことをして、それでいて無関心

発する言葉も他人事そのものだ。

これらのことから思ったのは長崎奉行のお役人にとっては正直キリシタンなんて存在はどうでもよかったのではないか?ということだ。幕府からの指令で仕方なく取り締まっているだけのような気がしてならなかった。

ではなぜ拷問や処刑に至ったのか?ということだが、それはキリシタンの多くが百姓だったからではないかと思う。当時は差別が普通にあった時代。それに作中のシーンからも百姓を蔑む言葉が多々見受けられた。キリシタン弾圧の矛先に百姓という身分があったから、それがさらに拷問や処刑に残忍性を持たせてしまったのではないかと思う。

浅野忠信さん演じる通辞役にしても、百姓のキリシタンを処刑するときに全くの他人事のような振る舞いをしているのが印象的だった。ましてや百姓相手だから悩むことなど何もないと言った感じで、そこには宗教の問題だけではなく、当時の身分の問題もそこには介在していたのではないかと思う。

 

何が正義で何が悪なのか?

この作品ではキリシタンが正義、キリシタン弾圧を推し進める長崎奉行が悪として描かれている。しかし長崎奉行にとっては正義のための行動であったことには違いない。幕府からの指令でキリシタン弾圧を進め、またそれが長崎奉行側の信念であったことに違いは無い。ましてや当時の日本において異国の文化が入って来ることによる脅威というものは計り知れないものがあったと思う。

なんならキリシタンによって幕府が転覆させられキリスト教国家が出来上がる危険性があったかもしれないわけだ。

そうなると見る側によって正義と悪は変わってくるものなんだと思う。

ひとつ言えることはキリシタン、長崎奉行それぞれが自身の信念に従い行動していたということだ。

 

信念を曲げなきゃいけないときもある

この作品を観て思ったのは、時には信念を曲げなきゃいけないときもあるということ。そりゃあ最初から最後まで信念を貫き通すことができるならそれが一番だと思う。

けどこの作品のようにその時々によって流れに身を任せなくてはならないときというのはやって来るものである。その時に流れに逆行するのではなく、流れに身を任すことも信念を貫き通す上で大切なことなんじゃないかと思った。

世の中って不条理で理不尽で矛盾で出来上がってる。その中で信念を貫き通すということは、また信念を貫き通す中で矛盾が生じてもいいんじゃないかと思う。右往左往して遠回りしたとしても、信念を貫き通すことが大切なんじゃないかとも思う。たとえ途中で矛盾や間違いが生じたとしても。そしてそれが不条理で理不尽な世の中を生きていくための定めなんじゃないのか?とも思う。

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原作の遠藤周作さんの「沈黙」も購入してきたので原作と映画の違いを比較していきたい。そしてさらに作品を読み解いていきたい。

最後にこの作品に出会えて良かった。

まさしく名作と言われ続ける作品でしょう。